金魚鉢

田舎から上京してきた大学生、旅行と読書が好きです

印象派展に行きました

 先日東京にも雪が降りました。その数日間は体調が悪く部屋で寝ていたのですが、生まれて初めて雪が積もる様を窓から見ていました。住んでいる地域はあまり激しく降らなかったので雨の延長線上といった感じでした。インスタを見たら大学や中高の同級生があげた雪のストーリーでいっぱいになっており、地元は積雪の全くないところだったので、なんだか不思議な感じがしました。空からあれだけの質量のものが降ってくること、そしてそれが真っ白なこと、なんだか嘘みたいです。

 

 大学のテストやレポートに追われた一月も終わりを迎え、なんとか無事進級できそうで嬉しいです。

 

 東京都美術館の「印象派展」を見に行ってきました。(ひとりで。ちょっとさみしかったです。)以下に書くのは絵に全く詳しくない素人の大学生の感想ということをご了承ください。

 東京都美術館、初めて訪れました。間違えて他の美術館博物館に入りそうになったり、道を見失いかけたりしましたが、無事に辿り着けて安心しました。建物の外観からとても素敵です。中に入ると想像の何倍も混雑していて面食らいました。事前にチケットを購入していたことと、係の方が誘導してくださったためにスムーズに入れました。美術館に行くのも本当に久しぶりで、しかも今回は一人だったので、少し緊張しました。

 私は先述のとおり絵には詳しくないのですが、モネの「睡蓮」とか、高校時代に日本史の資料集で見た黒田清輝「湖畔」とか、明るくて水色っぽい絵が好きだなあと思っています。今回様々な絵を見て、再確認しました。風景画なら湖とか川とかが好き。人物画も、柔らかい色合いのもの。

 ただ一作品だけ、チャイルド・ハッサムの「コロンバス大通り、雨の日」だけは、その系統から外れているのに強く心を動かされました。雨の日の街並みと道路を走る馬車を描いた、全体的に茶色っぽい色合いの、美しい作品です。青くないし、おそらく寒いであろう雨の日の景色なので特段柔らかくもない。しかし、まるで自分がその場にいるかのような、無数の雨粒が地面を叩く音と冷えた空気、湿ったコートの重み、俯き気味の人々の静寂が感じられます。

 なんとなく、恩田陸さんの『ライオンハート』中のとある章を想起します。私の中でのその章のイメージは、「コロンバス通り、雨の日」に少し似ていました。(本の内容にどのくらい触れていいか分からずボヤっとした記述になってしまいました、素敵な本なのでぜひ読んでみてください。)おやすみの日、体調も気分もいい時に、雨の音以外何も聞こえない街の中をひとりで歩いていく時間って贅沢ですよね。恋人や大好きなお友達とカフェを目指して歩いたりするのも最高だと思います。

 

 絵を描く、というのはどういう気持ちなんだろうな、と思います。印象派展を見ている間も、私からは触れられないし正面からしか見れないし、ネットや資料集で見るのとそこまで変わらないのに、キャンバス一つに描かれた「絵」は額縁の中に確かに存在していて、何百年も前に画家がその指でその筆で触れていて、その画家の前には風景あり、後ろには彼らの人生がある。真っ白のキャンバスに風景を閉じ込める、というのは、非常に美しく崇高で、それでいて恐ろしいことのように思われます。現実そのままでもなく、完全な虚構でもないその世界は、描かれ始めた瞬間に創造される。画家たちには世界は絵の中のように美しく見えていたのでしょうか。

 

 ともかく、大変素敵な展覧会でした。私はテンションが上がって900円ほどグッズを購入しました。「コロンバス通り、雨の日」のポストカードも。他の美術館もぜひ訪れてみたいので、初心者におすすめの美術館があれば教えてください。

 

 上野の不思議なところは、非日常と日常、静寂と喧騒が同居しているところですね。美術館を出て公園をぶらぶらした後、マルイでコスメや雑貨や本を見て楽しみました。今更ながらリップモンスターが欲しいです。また最近は現代短歌にハマり、歌集を集めているところです。アルバイトがんばろう、、、

12/17 歩いた・喪失について(少し)・東京

 寒い夜に散歩していて、体が温かくなっていくのと反比例するように指先が冷えていく感覚は、死ぬ時の感覚に似ているのだろうか。わたしは死んだことがないからわからないけれど。

 

 小さい頃、死んだらそのまま(例えば病人なら横たわっていたベッドごと)天に昇っていくんだと思っていたし、愛し合う男性と女性が一緒に暮らしていたら自然と愛すべき子供ができると思っていた(子供のうちの何%かは同じような認識をしていると思うが)。その頃のわたしは美しいこどもだった。容姿ではなく、精神が、だ。今はどうだろう。わたしは、醜いだろうか?

 

 美しい文章、青く澄んでいて、冷たく、鋭利で、触れたら溶けてしまうような文章を書きたいと思っているのだが、難しい。わたしは昔から自分の輪郭や感情の記憶などが曖昧で、数秒前の自分と今の自分に連続性を認めるのがなんとなく難しいというか、しかし実際に本当にそうなのかももはやわからぬほどにぼんやりとしていて、もしかしたら病名がついてしまうかもしれないなあと思いながらも、いや大丈夫な気もする、この不安も私の勘違いかもしれない、などと揺れながらふわふわ生きている。それでも受験をして合格という目標を掲げて長期間勉強に打ち込んだおかげか(第一志望には落ちたが!)、はたまた上京してきたおかげか、最近はなんとなく自分の軸が確固たるものとしてある時間が長いような気がするし、前述の不安についても考えることがほとんどなくなった。単に考える時間がないからかもしれない。だが最近は強迫観念というか、家を出る前や家事をする時などに自分の気になってしまったことを解消するために何度もほとんど無意味な行為を行なってしまったりする(なんだか文字にすると、やばい気がする!)。まだ大丈夫だが、本当に酷くなってしまったら病院に行くべきだろう、おそらく。

 

 日記のようなものをつらつら書こうと思っていたのに、余計なことをだらだら書いてしまった。今日はお台場に行って夜景を見ながらぶらぶら散歩した。一緒に行った友人のことを細々書くのはなんとなく相手に申し訳ないしわたしもなんとなく嫌なので、ひとりではなかった、とだけ記しておく。(ひとりでまた行くのもいいかもしれないが!そうしようかなあ)光輝くビル街を見て、わたしは都会に来たのだ、と強く思った。それは田舎からの解放であって、きっと同時にやわらかな絶望でもあった。サークルの同期がインターンに行ったり留学の計画を立てたりしていて焦る。わたしはこの1年何をしていただろうか。都会で生きていくことは本当に、競争だ。わたしはまだ暗闇に浮かぶ白い光たちを見て美しいと思うことをやめられない。地元での日々、満点の星空や風に靡く稲穂たちはいわば私の子供時代の象徴で、わたしはまだ都会にやってきた田舎者の気持ちで、つまり子供の頃の甘さを捨てられていない。地元にいた頃よく聴いていた「東京流星群」を思い出す。すごく好きな歌だが最近聴いていない。わたしが知る東京では、この頭上の濁った空では、流星群など見えない。わたしはあといくつ、わたしを構成していたものたちを失うのだろうか。大人になって好みが変わったとか、そういう気分で今一時的に失っているだけだとか言えば、それまでなのだけれど。

 あとは今日初めてゆりかもめに乗った!とても良かった。地下鉄に慣れてしまったので、数両編成で空中を走るのはワクワクした。窓の外に広い青空が広がっていて、こんなことは東京に来てからほとんど初めてで、なんだか息がしやすかった。例えばわたしが泣いたときに涙が今日の青空の色だったら、わたしはわたしをもう少し愛せるかもしれない。

 

 本を読むことが好きで、フィクションの世界が好きで、美しいものが好きで、だから映画もアイドルも好きだし、音楽も好きだ。それらについてもおいおい書けたらと思う。もしこれを読んでくださった方の中でおすすめの本や映画やアイドルや曲やバンドがあればぜひコメントなどで教えてください。

 

 なんだかぐちゃぐちゃした内容でしたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。風邪に気をつけてね

12/15 日記

 今日大学を歩いていて、イチョウが散りかけていて、ああ黄色いなあと思って写真を撮った。自分の普段いるキャンパスだけでなく、今日は珍しく本キャンにも行ったのだが、私の背丈の何倍もあるイチョウが永遠に並んでいて、その真ん中を私が通って、地面は落ち葉で真っ黄色に染まっていて、私が本キャン生だったら卒業した後でこの景色を大学生活の象徴として何度も思い出すんだろうなあと思った。美しいものというと、私はハリーポッターの映画を想起するのだが、まあ秋の大学、赤や黄色に色づいた落ち葉が目の前をゆっくり落ちていくその数秒は、ホグワーツ城の美しさといい勝負かもしれない。美しいものを見た時、それを美しいまま自分の言葉で表現するのは難しいことで、ご覧の通り私は失敗したわけである。イチョウの美しさを言語化できる人はいるのだろうか?

 

 私はブログというものをほとんど読んだことがない。中学か高校の時に好きなアイドルのオタクの、異常に芸術的センスに溢れたお姉さんが書いていた記事を読んだのと、この前青松輝さんのブログを少し読んだくらいだ。お姉さんのブログは今でもぼんやりと覚えていて、けれどこの前Twitterアカウントを探したら見つからなかったので、もう二度と見ることは叶わないかもしれない。インターネットって儚い。私は極彩色の文章も書けなければ澄んだ青のような文章も書けず、おそらくこれを誰かが読んでくださったとしてもその人の生活に何かを(烏滸がましくも)与えることは全くできないと思う。自分で読んでもつまらないし。ただ、自分の大学生活をなんらかの形で残しておきたいから、これは単なる記録であり、備忘録である。今後文章力が向上するかも、という希望だけ持っておくが、それよりも飽きてアカウントを消してしまう可能性の方が高いかもしれない。

 

 大学にモチベーションを保ちながらウキウキ通うことは難しい。まず大学に行くまでに、電車は混むし、人は多いし、みんなが急いでいる。東京に来てから強く思う。しかし私は高校がしんどかったし、地元を毛嫌いしていたから、もう東京に出て一人戦うしかないのだ。私は(自分で言うのも何だが)かなり真面目だから、田舎から私を送り出してくれた親に申し訳ないから、高校よりは多分マシだから、ギリギリ休まずに行っているけれど。それでもやっぱり東京はしんどい。

 

 アイドルが好きだ。ウォニョンちゃんとか、作間龍斗くんとか、矢花黎くんとか、シュファさんとか。見た目が美しいというのは、なんだか不思議なことだ。私たちはどうして見た目が美しいことにこだわるのだろう。まあ見た目が美しいことで生きやすい世の中では、少しだけあるかもしれないけれど。別に見た目が美しいから病気になりにくいとか、必ず長生きするとか、そういう生物として根本的な作りは違わないのに、私たちは美しい人間を選ぶ。けれど、先述のように見た目が美しいことは(裏目に出る場合もあるが、ある程度ならば)生きやすいことにつながる気がする。これは完全に私の考えだが。私は高校生の頃、部室で一人自主練をしていたら隣の部室から自分の名前と不細工だと断定する声が聞こえてきたこととか、卒アルの写真が醜すぎて撮影の夜に泣いたこととか、そういう思いを何回かしていた。努力しなかった自分も悪いかもしれないけれど。大学生になって、メイクを覚えて、少し痩せて、髪を染めて、今もまだまだだけれどあの頃よりかなり息がしやすい。いつか完璧な女の子になりたい気持ちもあるけど、まあひとまずは今のまま、少し醜いくらいでもいいかもしれないと思う。

 

 自分の薄暗い性格は嫌いだけど結構気に入ってもいて、私はそういう思いをしたことがない他の女の子や男の子よりも1つ多く感情を知っていて、だからきっとみんなより1人多くのひとに寄り添えると思うから。大きく傷つけられたことはないけれど、こういうことされて少しだけ嫌とか、でもそれを言い出せなくて笑って誤魔化す時の頬の痛みとか、私はそういうものを知っていて、だから私のようなひとにそういう思いをさせないように振る舞えるのだ。

 

 今、さっき温めて忘れていたミルクティーを飲もうとしたらすごく不味かった。明日はクロワッサンが食べたい。